地衣を食う毛虫 矢野幸夫:ライケン 7(1): 5-7, 1989.

写真1.ヨツボシホソバの幼虫.頭を下向きにして杉の樹幹にとまっているところ.

写真2.ヨツボシホソバの成虫.幼虫時に地衣を与えて飼育し,羽化した個体.

昆虫の中で鱗翅類,つまりチョウ・ガの仲間はかなり大きなグループである。幼虫は俗に毛虫と呼ばれ,あるいは形や習性によって青虫・いも虫・ しゃくとり虫などといわれる。多くのガの幼虫が木や草の葉を食べることから,野外で幼虫を捜すときは当然のなりゆきとして木の枝や草の葉を主とすることに なり,地衣まではなかなか目が届かない。そういう私自身もその例にもれず木立や草むらを見てまわるのが常であったが,最近たまたま地衣を食べる幼虫に出会 う機会があった。そのひとつを御紹介したい。

昨年の6月9日のことである。この日は雨もよいの天候であったが,千葉市郊外の雑木林に幼虫捜しに出かけた。同行の長谷川雅美氏(千葉県立中央博物 館)とともに,水田に面した林縁の道を歩きながら,コナラ,アラカシ,イヌシデ,ガマズミなどの枝を調べてまわる。ひとまわり採集したところで村落に入 り,ここで2種ほど追加し,もう帰ろうとしたときである。長谷川氏が樹幹の地衣の上にいる毛虫を発見。駆けつけてみると3cmほどの灰色の虫がスギの幹を ゆっくりはっている。よくみれば胴には朱色の点が2列に並び,細かい模様もある渋い色の毛虫である(写頁1)。これは地衣を食べる種類ではないか。形態か らヒトリガ科と見当をつけた。図鑑に当たってみるとヨツボシホソバらしい。

現地で採集した地衣と,自宅付近のものとを与え,飼育は順調に進んだ。2匹持ち帰ったうちの1匹は,はやくも翌10日にはまゆを作り始め,12日にサ ナギとなった。まゆは自分の毛を織り込んだ薄いまゆである。9月20日,鮮やかな黄色い成虫が羽化した。はねの中ほどに青びかりした黒紋がある。まさしく ヨツボシホソバ(Lithosia quadra L.)である(写真2)。もう1匹の幼虫は少し遅れて22日に羽化した。

幼虫が地衣を食べるガの種類はあまり多くない。たとえば原色日本蛾類幼虫図鑑(一色,1965,1969)によると,500種あまり収銀されているガ のうち,地衣を食べるのは22種である。このうち11種はヒトリガ科に属し,残りの11種はヤガ科に属している。ヒトリガ科の中では,コケガ亜科の幼虫が 地衣を食う。ゴマダラキコケガやハガタベニコケガなどは,語尾が「コケガ」となっているので,コケガ亜科の仲間であることはわかりやすい。ただし別の語尾 がつくものもあり,問題のヨツボシホソノミはその一例である。

一般に,草や木を食べる幼虫は,特定の種または群の植物を選んで食べる。では地衣を食べる種類は,どうなのだろうか。ヨツボシホソバの幼虫が付いていた地衣は,千葉県立中央博物館の原田浩氏に見ていただいたところダイダイサラゴケ属の一種(Dimerella sp.)とレプラゴケの一種(Lepraria sp.),それと所属は分からないが緑褐色の顆粒状の地衣であった(以下に挙げる地衣類はいずれも原田氏に同定していただいた)。実際にこの3種の地衣 をェサとして飼育したので,地衣を食べることは間違いないようだ。ただ残念なことに3種を分けることができなかったので,どの地衣を食べたかは確かではな い。さらに他の地衣ではどうかというと,自宅付近のケヤキの樹幹に生えるフィスキェラ属の一種(Physciella melanchra (Hue) Essl.)を与えたところ,これもよく食べた。しかし生息地から持ち帰ったウメノキゴケ(Parmotrema tinctorum (Nyl.) Hale)には手をださなかった。どの程度の選択性があるのだろうか。地衣類には,地衣成分と呼ばれる物質を多量に含む種類も多いと聞く。地衣を食べる毛 虫のエサに関する選択性で,地衣に含まれる地衣成分の種類や量にも関係するかもしれない。すこし調べてみたいものである。

ところでヒトリガ科の幼虫には,人目につく種類がいくつかある。千葉市付近ではアメリカシロヒトリとスジモンヒトリが代表格である。いずれも歩くとき はすこぶる速い。このほか,いままでに出会ったどのヒトリガの幼虫も,みな歩くのが速い。そういうわけで,速く歩くことはヒトリカ科幼虫の特徴であると長 い間私は思っていた。しかし今回,ヨツボシホソバの幼虫を飼ってみると,歩き方が極めて遅いのである。実は,半月前に飼育したゴマダラキコケガも歩くのが 遅く,気になっていたのだ。コケガの歩き方はなぜ遅いのだろうか。地衣が一面に生えているところでは,ほとんど歩くことなしにえさを食べることができる。 樹皮をおおう地衣を,はしからなめるように食べていく。だから,あまり歩く必要はない。あるいは,地衣の上にいることが関係するのかもしれない。普通なら 葉の裏や茂みにかくれて敵の目をのがれるところを,コケガの場合は体をかくすものがない。だから,まぎらわしい体色の保護色的効果を転んで,じっとしてい る方が安全なのではないか。いろいろ考えていくと興味は尽きない。

いずれにせよ,このような行動の特徴や,先に述べた食物選択の特性は,進化によって生まれたものであろう。地衣と毛虫。植物と昆虫の進化。それは地球の歴史の断面…。こんなことに思いを馳せながら,私はいま,展翅したヨツボシホソバを眺めている。

引用文献
一色周知(監修)1965.原色日本蛾類幼虫図鑑(上).277pp.,60 pls.保育社,大阪.
一色周知(監修)1969.原色日本蛾類幼虫図鑑(下).237pp.,68 pls.保育社,大阪.