地衣類の採集と標本の作り方には,顕花植物の場合といろいろ違った点がある。うっかりすると標本を作っている間に変色したり,カビが生えたりし て,折角の貴重な採集品が使いものにならなくなってしまう。一方,地衣類の採集にはいくつかの採集用具が必要である。用具の選択や使い方にも多少の心得が 必要であろうし,外国の地衣学者は一寸違った道具を使っているようで,そこにはそれぞれの国の伝統を反映しているようにも見える。
本誌を手にされる方々は多少とも地衣類に興味をお持ちだろうから,地衣類を採集したり,手にしたり,あるいは機会があればそうしたいと考えておられるこ とだろう。日本の地衣類は,「図鑑」が出版されたり,大気汚染の指標として使われるようになったりしたため,一般の人々にも親しまれる存在になってきた。 従来は専門家だけが地衣類を調査したり,採集したりしてきたが,これからは多数の人にお願いして調査することも多くなると思われ,本来植物の調査,研究も そうした裾のひろい採集家,研究者がいてはじめて成り立つものと思われる。このような場合に,折角採集した標本が研究の対象として立派に役立つようでなけ れば,善意からしたことであっても結果はいたずらに自然を破壊したことに終ってしまうであろう。
以上の諸点を考えて,この一文では地衣類の採集から標本を作って管理保管するまでの過程を順を追って説明し,注意すべき点についてもできるだけ詳細に述べて,でき上った標本が立派に研究の対象となるようにしていただくことを目標として書いてゆきたい。
1.地衣類の生育基物
ある地域で地衣類を採集するためには,地衣類の生育状態,とくに地衣類が生育する基物についてよく知っておく必要がある。
地衣類は菌と藻の共生体であって,それ自体で独立に生活できるから,寄生または腐生という生活状態を示すものはない。したがって原則として,地球上のど んな状態の場所にでも生育することが可能である。最も普通に見られるものは,地上生(terricolous),樹皮生(corticolus),岩石生 (saxicolous)の地衣類で水中に浮遊していたり,空気中で生活しているような地衣類はない。また,海や川の深い部分に生育する地衣類はないが, 海では低潮線以上,川では乾燥期に水がなくなる部分で稀に見られる。
イ・地上生地衣類
日本では樹枝状のハナゴケ属(Cladonia),や葉状のツメゴケ属(Peltigera)などの地衣が代表的なものである。地上生といっても直接土の上に生育するのはヒメジョウゴゴケ(Cladonia humilis),ジョウゴゴケ(C. chlorophaea),セイタカアカミゴケ(C. graciliformis),ヒメツメゴケ(Peltigera venosa) などの少数の種に限られ,大部分のものは地上に堆積した腐植質の上に蘚苔類などとともに生育している。そして,多くのものは腐植質が岩石上に堆積している 場合にも同様に生育していて,見かけの上では岩石生と見えることもある。オーストラリアの半砂漠状の乾燥地ではウメノキゴケ属(Parmelia),チャシブゴケ属(Lecanora),シロツノゴケ属(Siphula)などの地衣が赤土の上に直接生育していて,全く奇観を呈するが,これらの群の地衣が地上に生育する状態は日本では見られない。
土壌の種類やpHなどとそこに生育する地衣類との関係は当然考えられることであるが,詳細はまだ研究されていない。ただ,移動の激しい土壌,例えば河原の砂,海岸や砂丘の砂,しばしば崩壊する崖の土壌などの上では地衣類は発見されない。
ロ.樹皮生地衣類
低地ではウメノキゴケ属,ゲジゲジゴケ属(Anaptychia)の葉状地衣,モジゴケ属(Graphis),サネゴケ属(Pyrenula)などの固着地衣を主体にして多様な地衣類がクロマツ,ケヤキ,ハンノキ,カエデ等の樹幹部の樹皮上に見られる。ブナ帯ではカブトゴケ属(Lobaria),ヨロイゴケ属(Sticta),ザクロゴケ属(Haematomma),トリハダゴケ属(Pertusaraia)等の地衣類が豊富である。針葉樹林帯のコメツガ,オオシラビソなどの樹幹ではエイランタイ属(Cetraria),フクロゴケ属(Hypogymnia),へリトリゴケ属(Lecidea) などの葉状地衣や固着地衣が多い。これらの地衣類はそれぞれ特定の樹種に限って出現するのかどうかは,しばしば尋ねられるが,一般にはとくに厳密な関連性 はないように見える。欧米では,樹皮に窒素分を多量に含むものと,そうでないものを区別して,それぞれに生育する地衣類が異なることが報告されているが, 日本ではまだ充分な研究が行われていない。窒素分の多寡はさておき,樹皮上の地衣類の分布は,樹皮の平滑度,水分の保有力などの物理的な性質に影響される ことが多いように見える。樹皮生地衣類のなかで,非常に特殊な例として,ツブミゴケ(Gymnoderma insulare)の生育状況をあげることができる。ツブミゴケはスギの樹幹にしか生育しないが,そのスギは少くとも300年を越す老杉に限られ,しかも,樹幹部に出来た比較的大きい縦帯の両縁部分に沿ってだけ出現するという興味ある生態を示す。
ハ.岩石生地衣類
露岩上に生育する地衣類で,キゴケ属(Stereocaulon),イワタケ属(Umbilicaria),キクバゴケ属(Xanthoparmelia) の地衣などは岩石上にしか生育しないものである。しかし,地上生または樹皮生の地衣類の多数は,湿度が高いか,岩石上の腐植の量が多いかすれば,岩石上に も生育し得るものである。岩石生地衣類は天然の露岩の上ばかりでなく,人工的に岩石の表面を露出した墓石,石垣などの上にも出現し,また尾根瓦やスレート の上にも生育する。日本の高山で稀に発見されるカニメゴケ(Acroscyphus sphaerophoroides)の場合は,ハイマツの中から突出している高さ2~3mぐらいの岩の頂端部に生育していることが多いので,地上からの岩の高さも,その上に生育する地衣類と無関係ではなさそうに思われる。
上に述べた地上生,樹皮生,岩石生地衣類のほかに,暖帯から熱帯にかけての温暖な地方では種子植物の葉の上に生育する葉上地衣(foliicolous lichens)が見られる。日本でも九州南部から沖縄へかけてしばしば葉上地衣が発見されるので,林縁の常緑闊葉樹の葉の上面は注意して見る必要があろ う。また,ニューギニアでは,昆虫のゾウムシの背中にウメノキゴケ属やゲジゲジゴケ属等の地衣類が生育していることが報告されており,また,南極や北極に 近い極地では動物の骨,貝殻などの上に地衣類が生育していることが発見されている。
2.採集地の選択
地衣類の採集には生育基物について知っていると同時に,採集に適当な地域を選択することが重要である。特定の種を探す場合,できるだけ沢山の地衣類を採 集したい場合など,目的はいろいろであろうが,いずれの場合にもどの地域へ行けばよいかという情報はあまり豊富ではない。種子植物や蘚苔類を専攻している 人から情報を得ようとしても,「地衣はどうでしたかね?」という頼りない返事が得られるだけである。仮に「沢山ありましたよ」という情報を頼りに出かけて みても,期待はずれに終ることがが多い。地衣類の専門家や採集家に尋ねれば最も確実であるが,手近かにそういう人がいないとか,未調査地域で情報が全くな いという場合には,次に述べるようなことを参考にすれば,かなり無駄なく目的を果たすことができるであろう。
朝比奈先生から「霧のかかりやすい所」が地衣類の採集地として良好であると,かつてお伺いしたことがある。多分先生が留学中にヨーロッパのどこかで聞い てこられた言葉だったのかもしれないが,採集地を選ぶにはこれは最も適切な言葉のように思われる。秩父地方ではサルオガセの類をキリモと呼んでいるが,こ れも霧のかかりやすい場所にサルオガセが出現することを示しており,従ってサルオガセの多い場所では他の地衣類の生育も期待できるだろう。つまり,基本的 には霧のかかりやすい,いいかえれば湿度のやや高い所がよい採集地であるといえよう。日本の山地,とくに標高約1500-2500mの地域では,年間の何 日かの特別な日を除けば,一般に午前中は天気がよく,上昇気流が上空で冷却されて午後には雲がかかる。下界から見れば雲であるが,山地の現地ではこれが濃 い霧であり,夏の間はこの雲はしばしば雷雲となり夕立を降らせることになる。しかし,日没近い頃にはこの雲も少なくなり,再び天気が快復する。だが,日没 とともに気温が低下すると,いわゆる夜露がおりる状態となる。つまり山地の地表近くでは夜露がおりて湿度があがるという通常の乾燥,湿潤のくり返しのほか に,午前から午後にかけてもう一度霧がかかるためにおこる乾湿のくり返しがある。この1日に2回おこる乾湿のくり返しは地衣類の生育時期にあたる温暖な季 節と一致しているような場合には,それは非常によい条件となるように思われる。
上に述べたようなはっきりした乾湿の周期的な変化はなくとも,常陸から陸中海岸へかけての地域でみられるように,暖流と寒流の接触によって霧がかかりや すい地域などは,地衣類の生育には好ましい地域と考えられる。つまり,平均的な気象条件よりは,多少でも湿度が高くなる条件を具えていれば,地衣類の生育 が期待できるということであろう。
こうした観点と,私の現在までの経験から地形と地衣類の分布を次のようにまとめてみた。この一般論が妥当かどうかは私自身も検討中であるから,御意見や御気付の点をお教え頂ければ幸です。
図1.海岸の地形と風向き. |
図1は海岸近くの1つの地形を示したもので,波打際から少し内陸へ入ったところに砂が堆積して小高くなり(A),さらに内陸側でやや低くなってい る(B)地形を示したものである。類似の地形は太平洋岸の砂浜となっているところでよく見られる。このタイプの海岸ではBの地点が通常よい採集地である。 図中矢印で示したように,湿度を含んだ海風がAの地点にぶつかったあと,やや高い位置をとってBの上を通り内陸に向うものと考えられる。そしてBの位置で は,この海風の反流にあたる風が穏やかに吹き,湿気がこの部分にこもったような現象がおこると考えれば,Bの地点が採集に適していることが説明できる。こ の場合にA地点にぶつかる海風が非常に湿度が高いか,あるいはしばしば霧のかかる,常陸,陸中海岸のようなところであれば,A地点も採集の候補地として期 待できるが,B地点の方がより秀れていることに変りはない。従って,同じ海岸で採集する場合でも,地形図を見て,図1のタイブの顕著な場所を選ぶ方が収穫 が多いだろうと思われる。
図2.山裾の地形と風向き. |
図2は平野部あるいは平坦地(A)から山地または斜面(C)への移行地帯を示したものである。この場合も、山裾にあたる(B)に風の吹きだまりが でき,この部分が地衣類の良好な採集地として期待できる。静岡,清水,富士市あたりでは,平地から背後の山地へ移行するBに相当する位置に,墓地を伴った 多数の寺院があって,これらの墓地が良好な採集地となっている。
図3.平坦地を伴う山地斜面の地形と風向き. |
図3は山地の斜面AおよびCの中間にやや平らな土地(B)のある場合を示しており,図2の場合と同様にBの部分が良い採集地として期待できる。逆にいえば山地における単調な斜面や,やや急峻な坂道のある斜面は多くを期待できないように思われる。
図4.岩峰のある山地斜面の地形と風向き. |
図4は山地の斜面に岩峰が突出している場合を示している。1,000m以上の標高で,たえず霧のかかる場所であれば,Aの斜面から吹きあげてくる 風は直接Bの露岩部にあたって水分(霧)を供給するので,他の条件とも相まって絶好の採集地である。常陸から陸中へかけての海岸は,このタイプの地形と同 様に考えられるので,低地ではあるが地衣類の多い場所である。 図1~4に示したような地形は,国土地理院発行の5万分の1の地形図からも充分に読みとれ るので,現地へ出かける前に一応検討して採集計画を考えるとよい。
湿度とともに地衣類の生育に影響を与えるのは光である。地衣類の大部分は種子植物や羊歯植物に比べて背丈が低い。しかし,藻細胞を地衣体内に含んでいて 炭酸同化作用を行っているから,当然ある程度の日照が必要である.種子植物や羊歯植物が地上に一面に繁茂すると,地上生の地衣類は育ちにくく,ある程度の 光を受ける樹幹や枝に地衣類が生育するだけになってしまう。関東地方の大部分は関東ロームに被われ,草木の発育が良好であるため,地上生の地衣類は関西の 場合に比べて非常に少ないという事実も,これによって説明できよう。それでは,地衣類の生育にどの位の量の光が必要かとなると,明確な答えが出せないのが 現状である。その1つの理由は必要な光の量は種類によって異なることである。すなわち,ツメゴケ属,ウラミゴケ属(Nephroma),イワノリ属(Collema),アオキノリ属(Leptogium) 等の藍藻類をゴニジアに持つ地衣類では必要な光の量はやや少く,多少うす暗い林床などによく生育している。これに対して緑藻をゴニジアに持つ地衣類,例え ば,ハナゴケ属,ウメノキゴケ属,イワタケ属等の地衣類は,やや明るい立地を好むようである。やや明るいというのはどの程度か,それを客観的に表現するこ とは困難であるが,具体的には次の2例をあげることが出来る。
第1は,木の間から洩れる光が地上で明暗の斑を作る程度の明るさと考えてもらえばよい。小枝が風に揺られ,木の葉が動くと,地上の明暗部が互に入れ代る ように見えるので,この明暗の変化をチラチラ現象といっているようである。つまり鬱蒼と繁った森林の下より,多少木がまばらで,木の間を洩れる光が所々で 林床に達するような状態の方が地衣類にとってはよい条件といえる。したがって常緑広葉樹の林よりは針葉樹林の林床,森林の内部よりは林緑,あるいは崖くず れや登山道などで林が切れた部分,天然林の内部よりは庭園風に樹木をまばらに植えた庭や植物園の方が地衣類の生育条件としては秀れているといえる。
第2の例としてあげられるのは,岩壁のような場所では,岩が裸になって露出している場合よりは,小灌木がまばらに生えている岩壁の方が地衣フロラは豊富 である。これも小灌木が適度の日陰を作っているためといえよう。裸の岩では,真南に面して1日中日光を受ける面よりは,やや東または西に面して1日のうち 一定の時間だけしか日光を受けない面の方が条件がよいように思われる。
第1,および第2の場合を総合して考えると,地衣類の生育に最もよい1日当りの日照時間があるように思われ,第1の場合と第2の場合では1日当りの総受光量はほぼ等しくなるのではないかと思われるが,詳細については今後の研究にまたねばならない。
以上に,地衣類の生育基物や採集地の一般的条件について述べたが,特定の種類や稀産種を探すためには,それぞれの種に特有な生育条件,生育場所を心得て いる方が効率的である。例えば前に述べたツブミゴケについては,私自身も長い間その生育条件がわからず採集できなかったが,標本のラベルから紀伊,高野山 に産することを知り,その生育状態を観察するためにわざわざ現地へ出かけたことがある。そのお蔭で,その後九州の英彦山でも採集することができた。また, 朝比奈先生が記載されたParmelia simodensis (= P. grayana)のタイブロカリティーについ て,先生から「下田の裏の山だよ」と伺ったことだけを頼りに伊豆の下田へ出かけ,それが武山(現在はケーブルで登れる)という小さい山であることをつきと め,さらに同種が豊橋郊外から渥美半島にかけて分布していることも明らかにした。つまり,地衣類が生育する一般的な条件を心得たうえで,あとは個々の特殊 なケースについての経験を積み上げることが必要ということであろうか。