地衣類の採集と標本の作り方 (II) 黒川 逍 【ライケン4(3): 1-4, 1980】

3.採集用具

地衣類の採集にはいわゆる七つ道具が必要だと言われている。七つも道具が必要なわけではないが,それなりの 道具を準備しないと,樹皮や岩石に着生している地衣や,密着している固着地衣を採集することは困難である。本稿の冒頭でも一寸ふれたように,採集用具に は,多少のお国振りがあって,欧米の地衣学者は我々とは違った道具を準備するようである。それについては後で述べることにして,日本の地衣学者,というよ りは私自身の採集用具を紹介することにしよう。

私が採集用具として準備するのは,革切りナイフ,釦穴あけ用ナイフ,たがね,金づちの4点(図1)と,採集した地衣を収める紙袋とこれを持ち歩くための布製コケ袋の合計6点である。これらの各々について少し詳しく説明しよう。

 
図1. 地衣類採集のための用具.A. 金づち;B. たがね;C. 釦穴あけ用ナイフ;D. 革切りナイフ.

革切りナイフ(図1D) -これは靴屋さんが靴底のへりを切り整えるために使うナイフで,図1をごらんになれば,年配の方は「あぁあれか」と思い出されるだろう。この革切りナイフ は,樹皮にへばりつくように着生している葉状地衣や,固着地衣を,樹皮とともに剥ぎとるために使用する。したがって,よく磨いだ鋭利なものでなければなら ない。ただ,よく切れるからといって値段の高いものを買うと,刃が硬いが脆いために,すぐに刃こぼれして使いにくい。したがって,値段の安いもので刃金の 質がやや柔いものの方が使いやすい。この皮切りナイフを採集に使うことは,朝比奈先生から教わったもので,実に便利だと思っている。一つだけ注意すべきこ とは,硬い樹皮をこのナイフで剥ぎとっている間に手がすべって,手の甲の側をときどき怪我することである。軍手をはめて使えばその心配はない。樹皮のなか には非常に硬くて,このナイフでもなかなか剥ぎとれないものがある。寒い季節のブナの樹皮などはこの例で,ブナの場合には樹皮に蓚酸カルシウムの結晶を多 量に含んでいることもあって,冬季にその樹皮を剥ぎとるのは困難であり,またナイフの刃先がボロボロにこぼれることもある。一般に5月下旬から9月上旬頃 までは,樹木の吸水活動が盛んになるためか,樹皮は柔くなり剥ぎとりやすい。

釦穴あけ用ナイフ(図1C)-こ れは洋服のボタン穴をあける時に使うナイフで,刃の幅が1.2~1.5cm程度のものを利用している。このナイフは,岩石や樹皮に比較的ゆるく着生してい る葉状地衣を,岩石や樹皮を剥ぎとることなしに採集する時に使う。これも高級品よりは安物の方が刃金の質が柔くて具合がよい。また,その使い方からいっ て,よく切れるという必要はない。蘚苔類の採集にはこのナイフは非常に都合がよいらしく,蘚苔類の研究者が使っておられるのを見て地衣類にも使いだしたも のである。

余談になるが,欧米の地衣学者で革切りナイフや釦穴あけ用ナイフを使っているものはない。彼等はとび出しナ イフ型の通常のナイフを使っている。この型のナイフの欠点は,下から突き上げるような使い方ができないために無駄な力を必要とすること,樹幹や枝の丸味に 合わせながら地衣体を採集するようなことができないために,採集した標本の幅が狭くなりがちなことなどであろう。

たがね(図1B)-たがねはコン クリート用で先端部の平らなものを使っている。たがねの大きさをどのように表わすかよく知らないが,私の使っているものには「19×190」と記入してあ る。最初の19は先端の平打ち部分の幅,あとの190はたがねの全長をそれぞれmmで表わした数字のようである。たがねには,このほかに先端部が丸く,鉛 筆の芯のように尖ったものがあるが,これは地衣類の採集には不適当である。たがねはもちろん岩石生の地衣類の採集に使う。チズゴケ属(Rhizocarpon),へリトリゴケ属(Lecidea) などの地衣の採集には不可欠である。私の使っているたがねは持歩くにはやや重いように感じられるが,これより小さいたがねを使うと岩石が小さく砕けやすい ように思われる。しかし,「16×160」あるいは「13×160」程度のやや小型のたがねの方が使いやすいという人もある。

金づち(図1A)-たがねをたた くために使う。市販の普通の金づちを使っているが,しばしば見かける片側が釘抜きになっているものは,釘抜き部分を使うこともないし,携帯にじゃまになる ので,両端ともに平らになったものを使っている。私はかつてオーストラリアを訪れた際に,両端の平らな部分が柄の取付け部分よりやや幅(直径)ひろく作ら れ,しかも,柄は手元でやや膨らんでいるものを買った。これは非常に使いよくて,愛用していたが,日本では同様のものを見かけたことはない。欧米の地衣学 者は鉱物採集用のハンマーをよく使っているが,これは重くて携帯に困るし,また,たがねに大きい力がかかって,分厚い岩石が剥がれてくる傾向があるのです すめられない。

紙袋 -採集した地衣を入れるためのハトロン紙製の袋である。私の子供の頃は,せんべいや駄菓子を買うとこの紙袋に入れてくれたので,「せんべい袋」とか「駄菓 子袋」とか呼んでいた。白いものと茶色のものがあるがそのどちらでもよく,大きさは横16cm,縦22cm(3号)程度のものが手頃であろう。ポリエチレ ンの袋を植物採集に使う人があるが,地衣類の採集にポリ袋を使うことは絶対に避けてほしい。蒸れのために地衣体が短時間でいたみ,とくに湿った地衣を入れ ておくと,1日半くらいで地衣体が自己分解してトロけてくる。スーパーなどで使っている紙袋(ペーパーバッグ)を使うのも1つの方法である。しかし,ペー パーバッグはわりに重く,雨天の採集などの場合には破れやすいのが欠点である。

採集した地衣は,1種または1点毎にこの紙袋に入れて,他の採集品と混じらないようにするわけである。したがって,採集時のメモ,例えば,標高,着生していた岩石や樹木の種類などを,それぞれの紙袋に書き入れておくと便利である。

布製こけ袋 -木綿の袋ならば,大きさや形は好みによってどのように作ってもよい。私は天竺木綿を材料にして,幅30cm,深さ50cmほどの袋を作り,袋の上部,外 側に口を閉じるために,綾織りの綿テープを縫いつけたものを使っている。採集した地衣は前述のハトロンの紙袋に入れ,さらにこれらを布袋に収め,手に提げ て歩くわけである。コケ袋は採集の日程によって2~3コから10コ前後準備しておき,採集行程の区切りのよい所で綿テープを結んで,コケ袋の口を閉じ リュックや鞄の中に入れる。

蘚苔類の採集家は,腰に下げる雑嚢をよく使っておられるが,地衣類はかさばるので雑嚢がすぐ一杯になり,あまり便利ではない。

 
 図2. 採集用具を収めるケース.A. 表側.左のポケットにたがね,中央のポケットに釦穴あけ用ナイフ,→のポケットに革切りナイフを差し込む.B. 裏側..

以上の採集用具を持ち歩くのだが,刃物を裸で持ち歩くのは危険であるし,そうかといってその都度リュックや 鞄の中へ納いこむのも面倒なので,私は図2に示したようなケースを作り,これに革切りナイフ,釦穴あけ用ナイフ,たがねを入れて,膜にぶらさげるようにし ている。このケースは最初は馬具屋さんに頼んで試作品を作り,その後多少の改良を加えたものである。まだ改良の余地があるように思われるが,今のところそ のまま使っている。

構造は極めて簡単なもので,土台になる牛草と表側のポケット部分を作るためのもう1枚の牛草を縫い合わせ, 裏側にバンドを通すためのバンドつりをつけただけのものである。しかし,この事ケースを作るには2・3の注意が必要である。1つはナイフ類を収めるポケッ ト部分の深さが,草切りナイフの金属部分の長さより深いことが必要である。これは革切りナイフの先端が最下部の縫いつけ部分に当らず,思わぬ時に刃先が ケース外にとび出す危険を防ぎ,また,この縫いつけ部分を傷つけることを予防する意味がある。もう1つは,表側のポケット部分の最上端と裏側のベルト通し の草の最下端との問を,必要以上に離さないことである。さらにつけ加えるならば,たがねや草切りナイフをケースに収めた時に,それらの上端部がケースの上 端より上に出ない方が使いやすい。

革切りナイフ,釦穴あけ用ナイフ,たがねの3点はこのケースに収めるよう工夫したのだが,金づちだけは今の ところどこにも入れる場所がない。そこで,上述のケースを右膜にさげ,金づちは左側の腰に刀を差し込むようにバンドに差し込んで歩くことになる。もちろ ん,こけ袋は手にぶらさげ,紙袋は10~20枚をポケットに入れて,いつでも取り出せるようにしている。

採集用具は結局は使い慣れたものであればよいわけで,欧米人式にとび出しナイフを使ったり,鉱物用ハンマー を使っても一向に差しつかえはない。また,用具とともに,ケース類についても,さらに工夫をこらし,もっと便利なものがあれば,さらに改良してゆくように したいと思っている。

4.採集

最近は地衣類採集の適地がだんだん少なくなり,また,自然保護の見地から言えば,採集に出かけることをあま り奨めるわけにもゆかない。しかし,いざ地衣類の勉強をしようとなれば,やはり手許に標本がなければ何もできない。したがって,自然保護の立場を守り,あ るいは景観の保持に配慮しながら採集するように心がけてほしいものである。

地衣類の採集で最も留意してほしいことは,1コの標本として活用できる充分な量の地衣体を採集することであ る。標本は形態を調べ,成分を調べ,ときには切片を作って内部形態をしらべるためのものであるが,こうした調査や観察の記録とともに,証拠物件である標本 が残っていてはじめて,他の標本との比較研究が可能となる。つまり,形態や化学成分を調べた結果と標本とそろったものが,その人の今後の研究の基礎とな り,財産となるものである。この理屈はよくわかっていても,充分な量の地衣体を採集することはなかなか実行がむずかしいようであり,5年や10年研究して いる人でも,この点で不充分な人もあるようである。

充分な量の標本を採集するということは,対象が地衣類であるために理解しにくく,感覚的にもすぐに納得でき ない点があるかもしれない。立場をかえて,種子植物の押葉標本をつくる場合を考えてみよう。花の咲いている枝の先端だけを摘みとったり,葉を一枚だけ採集 してきても,標本として不充分であることはすぐに理解できる。種子植物の場合には,採集する時にすでに押葉標本としての形を予想して,台紙の上にいっばい に枝がひろがるように,花も葉も充分につけており,時には地下の根の部分も含めて採集することはすでに常識となっている。地衣類についても同様であって, 地衣体の中心部だけ,あるいは周辺部だけであったりせず,樹枝状のものでは先端だけとか根元だけということなく,地衣体の各部分をそなえ,しかも,少なく とも標本のパケットの全面にひろがる程度の量が欲しいものである。

1コの標本として充分な量というのは具体的にどの位かと云えば,片手の掌の全体をカバーする程度が最低限と 言われている。葉状地衣や固着地衣では,掌いっばいの量ということはわかりやすいが,樹枝状地衣の場合でも,その表面あるいは真上から見た時のひろがり が,掌いっばいと理解しておいてもらう方がわかりやすいように思う。

樹枝状地衣 -高山性のハナゴケ属地衣の大部分は素手で採集できる。しかし,朽木,倒木,松の根元などに生えているものは革切りナイフや釦穴あけ用ナイフを使うことに なる。高山や極地では純群落を作っていることがあっても,この仲間の大部分は通常は数種がまじり合って生育している。このような場合には,目的とする種は どれであって,採集した集団のなかに目的の種がどの位含まれているかをよく見極めながら採集することが必要である。とくに,松や杉の根元やわら屋根上に生 育しているヤリノホゴケ(Cladonia coniocraea),ヒメレンゲゴケ(C. pityrea),コアカミゴケ(C. floerkeana)などが混然と生育しているので注意すべきである。キゴケ属(Stereocaulon)の地衣はすべて岩石生であるから,ヒロハキゴケ(S. apocalypticum)を除いて,たがねと金づちを使って採集する。地衣体上部をつまんで引っ張ったり,岩の表面をナイフでこすって採集した標本は研究の役にはたたないと考えるべきである。

サルオガセ属(Usnea),ホネキノリ属(Alectoria),カラタチゴケ属(Ramalina) などの地衣は,素手で採集する人が多いようであるが,樹幹や枝,ときには岩石に着生している部分をたしかめ,ナイフやたがねで着生部分とともに採集する必 要がある。これらのなかまでは着生部に近い地衣体基部と先端部とで分枝のしかたが違うことがあるので注意が必要である。また,サルオガセ属のヒゲサルオガ セ(U. comosa)では基部が黒くなる特徴をもっている。

葉状地衣 -基物上に弛く着生するものは釦穴あけ用ナイフを使って基物から地衣体をはずしながら採集する。大形のツメゴケ属(Peltigera)地衣やミヤマウラミゴケ(Nephroma arcticum),ウスバカブトゴケ(Lobaria linita)などのように,深いこけのマットの上に生育しているものは素手で充分に採集できる。ムカデゴケ属(Physcia),ジリナリア属(Dirinaria),小型のウメノキゴケ属,大多数のウラミゴケ属地衣などは,革切りナイフで樹皮ごと採集する方が無難である。これらの中,小型地衣やキクバゴケ(Parmelia conspersa)群の地衣は岩石上に生育するので,たがねと金づちを使い,岩石とともに剥ぎとることが必要である。この際,岩石はできるだけ薄く,かさばらないように剥ぎとることになるが,これについては次の項で詳しく述べる。

固着地衣 -固着地衣ではすべて基物(樹皮,岩石,泥など)とともに採集することになる。固着地衣の地衣体周辺部や,他の地衣体との接触部には下生菌糸 (hypothallus)と呼ばれるゴニジアを含まない組織があり,特有の色をもつ輪郭線をつくることがある。下生菌糸の有無や色はしばしば種の特徴と みなされるので,周辺部を含む標本を採集するよう心がけねばならない。

固着地衣の基物としては,上述の樹皮,岩石,泥が一般的である。そのほか,墓石,屋根瓦,スレート,レン ガ,コンクリートなどの人造物の上に生育することがあり,これらの場合は,どのように対処するか工夫を要するところである。また,熱帯や亜熱帯では生葉上 に生育するものがあり,変ったものでは貝殻や獣骨の上に生える例も報告されている。

樹皮上の固着地衣は革切りナイフを用いて樹皮とともに採集する。岩石生のものは,たがねと金づちを使って, 岩石とともに剥ぎとることになるが,岩石はできるだけ薄く,そしてできるだけ巾ひろく採集するように心がける。厚みのある岩石をとると,標本(地衣体)は ごく僅かで,大部分が岩石という結果になり,採集品が重くなるばかりでなく,標本に作ると,ゴロゴロして大変扱いにくいものとなってしまう。岩石を薄くし かも幅広く剥ぎとるには,目的の地衣の生育している岩石の破砕しやすい面を見極めた上で採集にとりかかることである。つまり,破砕面に平行になるようにた がねをあてがい,金づちも破砕面に平行に打ちおろすようにすればよい。いずれにしても,岩石の厚みは 2~3mmから5mm程度が望ましく,厚くとも 1cm以下であるようにしたい。2cmを超えるものは標本として不適当である。